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News- 高知のニュース

「中国では日本人、日本では中国人」と呼ばれ…残留日本人女性が背負い続けた孤独と“2人の母”との絆

終戦直後の満州で生まれ40年後に帰国した中国残留日本人の女性が高知市にいます。生まれ育った中国では日本人と呼ばれ、日本に来てからは中国人と呼ばれ差別を受け続けました。

自分は一体、何者なのか。悩み続けた81年の人生をたどると、戦乱の満州で出産し命がけで守ろうとした母の姿が見えてきました。

中野ミツヨさん:
「本当は日本人なのに、みんなから中国人と呼ばれて」

高知市に住む中国残留日本人・中野ミツヨさん(81)。終戦の年、戦乱の満州で生まれ41年前、実の親を探して日本へ。しかし…

中野ミツヨさん:
「会うことができない。ずっと泣いて、泣いて。私のお父さん、お母さんはどういう人?自分の故郷、自分の親が住んでいた家に帰りたい」

ミツヨさんとの出会いは2025年9月、高知市で開かれた平和を考える集いでした。

中野ミツヨさん(2025年9月):
「私たちの肉親は異国の荒れ野で惨めな死を遂げ葬られることすらできなかった。私たち残留孤児の存在はこのよう歴史の生きた証明」

1931年の満州事変以降、日本は20万人以上の開拓団を満州へと送り込みました。しかし、1945年8月、終戦の間際ソ連軍が満州に侵攻。引き揚げようとする多くの日本人が殺されました。

その戦乱の中、満州に取り残された子供や女性たちが「中国残留日本人」です。

中野ミツヨさん:
「(写真を見せながら)私のお母さん、生みの母」

ミツヨさんの両親は太平洋戦争中の1943年、四万十市の旧西土佐村から開拓団として満州に渡りました。終戦後、ソ連軍から逃げる中、母の乙女さんはミツヨさんを出産。しかし、栄養失調で母乳も出ずやせ細っていく我が子の命をつなごうと中国人に託したのです。

中野ミツヨさん:
「たった一枚の養母の写真。ずっと手元に置いている」

ミツヨさんは中国人の養母・パンさんに育てられましたが幼い頃、周りから「日本人の鬼」と呼ばれました。

中野ミツヨさん:
Q日本人の鬼と言われた時は
「信じない。私はお母さんが母乳で育ててくれた。私のお母さん。誰が何を言っても信じなかった」

自分が日本人と知ったのは小学1年生の時。公安局が残留日本人の確認のため養母を呼び出した時の会話でした。

中野ミツヨさん:
「私は命をかけてこの子を育てた。この子がもし私と離れたら私も死ぬと言って警察官は『もういいです。帰りなさい』と言った。戸の隙間からその様子を見て聞いた。よくわかった。私は日本人の子。間違いない」

ミツヨさんは日本人であることを隠し続け専門学校を卒業後、薬剤師として働きました。

1968年、中国人の夫と結婚し2人の子どもに恵まれました。しかし、31歳の時に人生を変える出来事が。女手ひとつで育ててくれた養母が56歳の若さで病死したのです。

中野ミツヨさん:
「お母さんが亡くなってから親戚1人もおらん。とっても寂しくなる。もし、チャンスがあったらお父さん、お母さんを探したい」

その頃、日本と中国は歴史的な転換点を迎えていました。1972年、日中首脳会談が行われ国交が正常化。日本政府が、本格的に残留日本人の身元の調査に乗り出したのです。

そして、終戦から40年─

【当時のニュース映像】
「山本芳子さんのめい、中野ミツヨさんと確認され…」

1985年、ミツヨさんは親を探す訪日団として初めて祖国の土を踏みました。

中野ミツヨさん:
「すごく興奮して。親に会いたい。もし、探すことができなかったらその時、気持ちが複雑」

しかし、戦乱の満州での出生を示す資料はなく、親探しは困難を極めました。そんな中、四万十町に住む伯母の山本芳子さんがミツヨさんと母親を結びつけました。

中野ミツヨさん:
「おばさんははっきり言った。『この子は乙女の子です。間違いない。お母さんに似ているところがある』」

しかし、心が引き裂かれるような事実を知らされます。実の母・乙女さんは満州の収容所で死亡。父・勝繁さんは故郷に帰った3年後に病死していました。

中野ミツヨさん:
「会うことができない。ずっと泣いて、泣いて。本当に辛かった。悲しかった」

初めて両親の墓を訪れたミツヨさん。一大決心をします。

中野ミツヨさん:
「親がいなくても私は帰りたい。日本は私の祖国」

1988年、ミツヨさんは家族とともに中国から日本へ永住帰国します。両親の故郷・四万十市の旧西土佐村では住民総出で一家を歓迎しました。

中野ミツヨさん:
「私、あの時、言葉が全然分からない。誰がどういう親戚か知らない。みんな親切にしてくれてすごく嬉しい」

その後、一家は高知市に移住しミツヨさんは看護助手として病院に勤務。しかし、言葉の壁とアイデンティティーに苦しみます。

中野ミツヨさん:
「本当は日本人なのにみんなから中国人と呼ばれ居場所がなくなった。本当に辛かった。私はどういう人なのか」

さらに、退職後は、障害のある夫を支えながら貧困にも苦しみました。

中野ミツヨさん:
「61歳で退職して年金が月5万円。私と主人2人で年金生活ができない」

2003年、中野さんたち残留日本人は「帰国後の支援を怠った」などとして国に損害賠償を求めました。しかし━

中野ミツヨさん:
「その結果を聞いたら本当におかしい」

高知地裁は原告団の訴えを棄却しましたが、国はその後、残留日本人への支援体制を見直しました。この裁判中、ミツヨさんを支え続けた四万十町の叔母・山本さんが病気で亡くなりました。92歳でした。

中野ミツヨさん:
「私と山本おばさん20年付き合った。母親のように」

山本さんもまた、満州の開拓民でミツヨさんの両親とともに壮絶な引き揚げを経験していました。その様子は旧西土佐村が発行した本に記されていました。

【さいはてのいばら道より】
「8月15日に終戦になったことを聞かされて人心恐々。略奪者の目を逃れ今日は東に、明日は西にと逃げ隠れしていました」

「義理の妹の乙女は生まれたばかりの赤ん坊を抱えてゆもじまではぎとられ、涙も枯らしていましたが、自分たちに何がしてやれましょう」

「夜になると、寒くて皆がひとかたまりになっていました。そこへ、ソ連兵がやってきて何人かの娘さんが陵辱を受けました」

「手出しひとつできなかった悔しさに涙にくれるのみでした」

山本さんが故郷にたどり着いたのは10か月後。母と夫・そして4人の子供を亡くしました。

中野ミツヨさん:
「帰った時は1人しかいない。その気持ちを思ったらつらかったろう」

戦後81年の夏。ミツヨさんは、息子の弘さんと共に伯母と両親の墓参りに行きました。

息子・中野弘さん(50):
「母は帰国から数十年経っても日本語は未だにうまくコミュニケーションが取れない時もある。小さい頃は自分たちも母のことを恥ずかしがっていた時期はあった。今後、親と一緒に言葉の壁を乗り越えていけたら」

終戦の満州で生まれ育ち、日本に帰国して38年。残留日本人・中野ミツヨさんのアイデンティティーとは。

中野ミツヨさん:
「中国は私の恩人、一生忘れない。日本は私の祖国。日本を離れることはできない。自分は日本人」

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