昭和南海地震から78年「ヅーといふ地響」新資料発見【高知】
2024年12月20日(金) PM7時44分
県内でおよそ700人が犠牲となった昭和南海地震から21日で78年です。このほどその被災状況を詳しく記録した資料が発見されました。
「『ヅー』といふ地震特有な地響」
「其所彼所の家屋が倒壊する」
「只事ならぬ情景に一変してしまった」
これは新たに発見された「三災記」の一節です。
昭和南海地震は終戦翌年の混乱期、1946年12月21日午前4時すぎに発生。マグニチュード8.0、高知県沿岸は4メートルから6メートルの津波が押し寄せ、死者・行方不明者は679人に上りました。当時の被災状況などを詳しく記した公文書はほとんど残っておらず、わからないところが多い昭和南海地震。
このほど高知城歴史博物館の学芸員水松啓太さん(26)が地震に関する展示を企画する中で県民に情報提供を求めたところ、2024年7月、「三災記」という資料が発見されました。
「三災記」は高知市の初代教育長の伊藤盛兄さんが当時住んでいた下知地区で自らが体験した南海地震を見たままに書き残したものです。伊藤さんにとっての“三災”とは
長男の戦死、自宅を全焼させた空襲、そして追い打ちをかけるように襲ってきた地震を意味します。伊藤さんは地震からおよそ半月後に避難先でペンを握り、この「三災記」を執筆したといいます。
1946年12月21日午前4時19分、下知地区の自宅で強い揺れに襲われた伊藤さんはその時のことをこう表現しています。
「『ヅー』といふ地震特有な地響と共に引き切りなしに微動を繰返し伝へて来る」
「物が砕ける、廂が落ちる、其所彼所の家屋が倒壊する、電灯が消へる、只事ならぬ情景に一変してしまった」
浸水の様子については「浸水は早や膝を没する全く水地獄」と深刻な被害を伝えています。手記の最後には「未来の震禍に参考すべき事柄」を9つ記しています。
その中の1つに「激震後弁当を用意してから避難して間に合ふ」という当時の故老の
言い伝えを過信したため逃げ遅れ溺死した人が少なくなかった。「地震ー津浪の直結であった」と警告しています。
高知城歴史博物館学芸員・水松啓太さん:
「当時の昭和南海地震の高知市の被害記録っていうのは行政とか統計的な数字の資料が中心なんですけれども、体験者が震災からほどなくして書かれた被害の実態を伝える手記として非常に貴重なものかなと思います。昭和南海地震を体験された方のリアルな体験談として内容をみなさんに知っていただいた上で、自らの防災活動に生かしてもらえたらなと思います」
高知城歴史博物館では高知の地震災害史を詳しく調べ、2025年3月から企画展を開くことにしていて、この「三災記」も展示される予定です。