死罪覚悟で11年ぶりに母のもとへ 漁師から幕臣に出世したジョン万次郎の「諦めない」人生
2026年7月8日(水) PM7時14分 <PM7時38分 更新>
土佐清水市の偉人・ジョン万次郎の波乱万丈の人生をたどるシリーズ企画の後編です。万次郎が幕末の日本へ決死の帰国を果たします。そして、日米の架け橋となる大きな仕事に挑みます。
【前編ダイジェスト】
14歳で漂流し無人島で生き抜いた万次郎。ホイットフィールド船長に助けられ、アメリカへ行くことに。学校で猛勉強した後、捕鯨船員となります。世界を航行する中、母への思いがつのり帰国を決意。しかしー
土佐清水市・文化財専門員 田村公利さん:
「鎖国時代、外国に出たら死罪、死刑になっていた」
決死の覚悟でかつて漂流した仲間と共に1851年、琉球に上陸。この時の万次郎は24歳、漂流から10年が経っていました。
後編も土佐清水市のジョン万次郎資料館で万次郎を研究する市の職員・田村公利さんが特別解説します。
琉球に上陸した万次郎たちはすぐに取り調べを受けます。
土佐清水市・文化財専門員 田村公利さん:
「鎖国の末期、外国船が結構入って来て、外国・欧米の情報がほしかった。罪人というより客分として万次郎は扱われた」
取り調べは琉球・薩摩・長崎・土佐と場所を移し、2年近くに及びました。土佐藩の絵師・河田小龍も万次郎に聞き取りをした1人です。
それをまとめた「漂巽紀略」は坂本龍馬にも影響を与えたと考えられています。
土佐清水市・文化財専門員 田村公利さん:
「万次郎が坂本龍馬と直接会った記録は残ってない。漂巽紀略・河田小龍を通して万次郎の存在を分かっていたのでは。龍馬は100年先を読んで生きてきた。万次郎のアメリカでのいろいろな知見が坂本龍馬に影響を与えていた可能性は強いと思う」
長い取り調べを終えた万次郎はようやく故郷・中浜に帰ることが許されます。そして、11年10か月ぶりに母親と再会を果たしたのです。
【中濱万次郎「アメリカ」を初めて伝えた日本人」より】
「人垣の中に母を見つけた万次郎は思わず駆け寄った。長年、夢見た母が目の前にいる。母も死んだと思っていた息子がたくましい青年となって目の前にいるのが信じられない様子で、ただ、万次郎の顔をじっと見つめている。突然、2人は固く手を取り合った。家中に明るい声が満ちて夜はふけていった。万次郎25歳の秋である」
間もなく日本は激動の幕末へ─。1853年、アメリカ海軍ペリー提督率いる黒船が浦賀に来航します。
土佐清水市・文化財専門員 田村公利さん:
「ペリーがきた時、通訳として万次郎も候補に挙がった。スパイ、アメリカに有利に訳するのではないか疑念があり使われなかった」
それでも幕府は万次郎を家臣に取り立て、故郷にちなみ「中浜」の姓を与えます。中浜万次郎は漁師から幕臣に。異例の出世でした。
1855年、幕府はアメリカから持ち帰った航海学書の翻訳を万次郎に命じました。
土佐清水市・文化財専門員 田村公利さん:
「日本にはなかった西洋の航海術を紹介し、より強固な操船、船に関するいろいろな技術を学ぶことができた」
1860年、幕府は日米修好通商条約の文書を交わすため、使節団をアメリカに派遣します。万次郎は通訳として軍艦「咸臨丸」に乗り、太平洋を横断。使節団には勝海舟や福沢諭吉もいました。
土佐清水市・文化財専門員 田村公利さん:
「みんな船酔いしていたが、万次郎だけは船酔いしなくてキリッとしていた。万次郎の英語は生活の中で身につけた。心と心をつなぐことができたと想像する」
江戸幕府の時代が終わり、明治に入ると東京大学の前身にあたる開成学校の教授に任命されます。(1869年・42歳)
翌年、フェアヘブンを訪れ父として慕ったホイットフィールド船長と26年ぶりに再会を果たしました。万次郎は44歳の時、脳出血を起こし表舞台から去ります。
晩年は、東京で家族と穏やかに暮らし1898年、71歳で亡くなりました。当時としては長寿でした。
万次郎が息子たちに常々伝えた言葉があります。それは、2018年に休校となった故郷の中浜小学校で受け継がれてきました。
保護者:
「ジョンマンスピリット。それさえあればどこでもやっていける、東京でもアメリカでも」
中浜小学生:
「We love grand John Manjiro. Challenge yourself. Never give up」










